はじめに
数年前に特攻兵のことについて学ぶ機会があり、特攻には尊敬と感謝の念から興味を持った。その際に感じたこととしては、大変な時代を戦いながら現代に繋いでくれた方々への感謝と、自分も授かった命に感謝しながら生きなければ、そんな気持ちであった。そして、いつか特攻隊の出撃の多かった知覧平和記念会館には行ってみたいと思っていた。
今回、たまたま4連休のお休みがあったので数年越しにようやく行けた、そんな気持ちで鹿児島知覧平和記念館へ。そこで感じたことを私の経験したままに記したい。
到着
2024年7月13日。前日仕事おわりに鹿児島に到着し、国分のホテルに宿泊した。午前中にレンタカーを受け取ると、レンタカーのナンバーの表記が”札幌”であった。レンタカーの店員さんが予備者まで出してる120%稼動だと言っていた意味がわかり、笑った。
途中、神社や護国神社に参拝し、鹿児島の山道をいくつも抜け、約3時間かけてようやく目的地である知覧特攻記念館に到着した。
知覧特攻記念館には外にも特攻機の模型や、銅像、宿舎などいくつか展示物があったが、まずはメインである館内へ向かった。お土産の売られている小さな売店を横目に通り抜け、ロビーで上映されている15分ほどの特攻隊の説明映像を見た。その後、メイン展示物の展示されているエリアに向かい、本来の順路とは異なるが、まず特攻隊の母と呼ばれるトメさんのビデオ映像を見ることにした。
トメさんのビデオ
トメさんとは、”特攻の母”と呼ばれる方である。トメさんは当時、トメ屋食堂というご飯屋さんを営んでいたが、戦争下では軍の食堂として使われていた。特攻兵はトメ屋食堂よく通い、トメさんをお母さんのように慕っていた。そして、多くの特攻兵が出撃前にトメさんに遺書を預けた。これは軍の検閲を受けずに大切な人に遺書を届けられるようにするためであった。つまり、トメさんとは誰よりも多くの特攻兵と関わった方であり、若い特攻兵の心の拠り所となった方である。そんなトメさんが、国のために命を落とした特攻兵の中で特に印象に残っている数名の方の人柄や出撃前夜の姿をトメさんの視点で話している映像であった。
その中には、腕を骨折した状態で操縦もまともにできない中で、腕を自転車の車輪のゴムを使ってハンドルにくくりつけて特攻出撃した方や、韓国出身だが日本人として生き、特攻出撃した夜にホタルとなってトメ屋食堂に帰ってきたと言われる方の話など、涙なしでは見ることのできないような内容であった。
その中で私の中で最も印象に残ったのは、
「日本は負けますよ。こんなことやったって仕方ない。上官に行けって言われたって行かないですよ。」
というように言った特攻兵であった。
その特攻兵にトメさんは
「そんなこと言ったら何されるか」
というように心配の声をかけたようで、
「そんなこと言う方は他にいなかったですよ」
と紹介していた。
それを聞いた時には、
あの時代で、それだけ戦果を上げているラジオを聴いていて、洗脳のような状況下でも、現状を冷静に見れる人はいるのか…。
という感覚だったが、少しずつ元々持っていた特攻隊に対する見方が変わり始めた。
より詳しく学びたかったので音声解説を購入しに戻り、再度メインエリアに入った。
講話
次にたくさんの人の遺書が展示されているエリアをふらりと見ていたが、特攻隊についての講話が聞けるとのことだったので、講話の行われる視聴覚室へと向かった。
講話ではまず1枚の写真についてのお話をいただいた。その写真とは、特攻隊の突撃前日にたまたま記者が通りかかり、撮影した写真であった。その写真には5名の特攻兵が写っており、そのうちの1人が犬を抱えた写真であった。話し手の方は、その写真を”とても特攻出撃の前日とは思えないほど自然な笑顔”と紹介。
確かに本当に笑顔の方もいた。ただ、心からの笑顔なのかなと感じてしまう気持ちもあった。もっというと、この写真を向けられたから笑顔だったのではないか。多くの人は感情と表情のコントロールができるだろう。私でもカメラを向けられたらどんな状態でも笑顔を作るだろう。カメラを向けられて笑顔になれないときは感情に何かを抱えているというより、その場に何か問題がある時、例えばカメラマンが好きではないとか。もしくはこの写真を見た人に対して何かを伝えたい時ではないだろうか。
そして、仮に自然な笑顔であるとして、自然な笑顔であることがそんなに大切なことなのだろうか。そんな懐疑的な気持ちも生まれた。
そしてメインである、1,000を超える特攻隊の遺書の傾向を説明してくださった。
傾向として多い順に、1.家族への感謝、2.仲間への感謝、3.大切な人のため・国のため・天皇のために命を捧げられることへの喜びが多いとのことであった。遺書には愛と感謝が書かれているものがほとんどである。今の時代では家族の問題も多いから、考えるきっかけにして欲しい
とのメッセージを受けた。
そして、何名かの特攻兵のことを紹介いただいた。
その中で印象的だったのは、特攻兵の教官としての役割を担っていた方の話。この方は、元々操縦士ではなく、陸の歩兵軍の方であったようで、特攻兵に対しては特攻兵としての心構えや、陸での訓練を担当していたそう。この方は特攻兵に、
「お前たちだけは逝かせない、私たちものちに出撃するのだ」
とよく言っていたようだった。
そして、特攻に志願したとのこと。
ところが、操縦士ではないために出撃許可が降りなかった。懇願したが許可が降りない。それを受け、この方の奥様が、主人の特攻としての意思に迷いが出ず、思いっきり志を果たせるようにと2人の子を連れて川に身を投げ、心中した。これを受け、上官が出撃を許可し、ついには特攻として出撃したという話であった。
実は、特攻隊の教官・上官をになっていた人のほとんどが、自分も最後には特攻として死ぬのだと出撃する特攻兵に言っていたらしいが、実際に出撃した人は決して多くなかったとのこと。
私はこれを聞いて、教え子に自分で言ったことを信念として成そうとしたこの方の生き方や、その考えを後押ししたいと行動した奥様に畏敬の念を抱かずにはいられなかった。ただ、それと同時に、この教官に対して出撃許可が出なかった理由は、本当に、操縦士でなかったからだけなのだろうか。他にも理由があったのではないかと。もしかしたら、この教官に許可を出したら、自分たちも行かなきゃ行けなくなるという恐れから許可を出さなかったということは無いのだろうか。そんなことを感じてしまっていた。
その後、女学生から見た特攻兵の特設エリア、海軍エリアを拝覧し、再度遺書のエリアに戻った。
遺書
遺書を1枚1枚読んで行くと、講話で聞いた通り、親への感謝、任命されたことに対する誇り、国・天皇のために命を捧げられることの喜びのみ書いてある遺書がほとんどであった。
その他は、人間とはこういうものだという悟りのような内容のものも多かった。
ここに来る前に特攻隊について学んだ時は数名の遺書しか見れなかったために、その内容を素直に受け、ただただ感動したが、その数が多くなっていくうちに、特攻隊の方々が伝えたかったことは本当にここに書いてあるのだろうか。本当に伝えたかったこと、思っていたことはなんだろうという気持ちになった。きっと書いてあることも本当の気持ちだと思う。ただ、それだけでは無いのではなかろうか、何でこれしかないのかな、本当のことを書けなかったのかな…というように感じ始めた。また、これは勝手な思い込みかもしれないが、出撃の早い方が国のために笑顔でという想いが強いように思え、出撃の遅い方が人間とはという悟りのようなことを書いている人が出てきたように思えた。
終戦の近くに出撃した人の中では、ただ、行くなら部下だけでも最新の飛行機で行かせてあげたかった。ということのみ書いてある遺書もあった。終戦も近くなると飛行機もなくなり、布プロペラの練習機でも出撃していたよう。不満があるように見える遺書は後半の方が多い傾向にあったように感じた。
1つ1つかなりの数の遺書を読んでも、本当に伝えたかったことはなんだろうという疑問は消えなかった。
展示エリア
特攻服や飛行機の展示されているエリアを拝覧し、説明を読みつつ当時の状況に想像を膨らませた。その説明の中で印象に残ったのは、特攻隊は終戦後軍国主義の象徴として蔑まされていたというものだった。
戦中は”神様”とまで言われていた存在だったのに、終戦後は蔑まされていたとは。
世の評価、人の評価というのはなんと相対的なものであろうと感じざるを得なかった。どんな世も王が変われば法が変わるかのごとく、人の評価というのは一瞬にして変わるものである。評価されている人はきっとその瞬間では何も変わっていないのに…と感じた。
衝撃的な最期
再度遺書エリアに戻り、終戦間近、終戦後に亡くなった方の遺書を読んだ。
そして、今回ここに来て最も衝撃を受けた出会いがあった。
それは、大西さんという方で、当時海軍中将で特攻作戦の生みの親と言われている方の話であった。
この方はポツダム宣言を聞いた後その場で自害し、その際に治療も介錯も拒否し、15時間後に亡くなったそう。15時間苦しんで死んだため終戦翌日の死亡日となっている。
この方に対してはきっと賛否両論あるだろうと思うが、私はこれを聞いた時に、本当に日本を考えて、軍人としていきた、自分の意思を貫いた方だったのではないかと感じた。
遺書も、これからの日本を託すというような内容であった。
15時間も介錯も拒んで自らの意思で苦しみながら自害した方は果たしているのだろうか。
そして、この方が本当に特攻の生みの親なのだろうか…一切の負の感情が湧いてこないのは何でだろうか…
自分がおかしいのだろうか。この方に対しても深い敬意、尊敬、畏敬そんな類の感情しか生まれてこなかった。
まとめ
知覧平和記念館には2時間を予定していたが、気付いたら5時間近く経っていた。記念館を出た後、私の中に残ったことは行く前に想像していた感情とは全く違ったものであった。行く前にはきっともっとこうしていきたいとか自分のことについて省みるようなことを感じるのではないかと考えていた。実際に出会った感情は、まだ説明のできない『違和感・疑念』であった。
①日本が負けるということを感じていた人はいたのか。本当にその方だけだったのだろうか。
②特攻兵の本当に伝えたかったことはなんだろう
③上官が特攻教育を行っていた方を特攻許可出さなかった裏の理由があるのでは
④世の評価、人の評価はなんと相対的であろうか
⑤特攻の生みの親は誰よりも責任感のある方であったのではないか
鹿児島には4日間いて、最終日にこの違和感がやはり大きくなりもう一度知覧平和記念館へ行こうか考えたが、今回は時間の都合上帰ることにした。帰ってから特攻について調べ、ある本に出会い、自分の感情に説明をつけることができた。そのことについて別の記事で紹介したい。ぜひセットでお読みいただきたい。
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