【歴史|戦争|特攻隊】知覧平和記念館で感じた違和感を追求して出会った本

歴史

はじめに

 ついに行けたという気持ちで行けた知覧平和記念館であったが、そこで出会った感情は想像していたのとは全く違うものであった。自分の中に残った違和感。疑念。

 旅をしていた段階では、違和感を感じた理由がわからず心が燻り、さらには違和感を感じたことに対しても罪悪感に似たような感情を覚えた。

 その感情に説明をつけるべく調べ、一冊の本と出会った。それは『不死身の特攻兵ー軍神はなぜ上官に反抗したかー』という本であった。この本には陸軍最初の特攻兵として任命され、フィリピンで何度も出撃し、戦果を上げながらも突撃はせず生還し、戦後も生き抜いた一人の男性にインタビューした内容が書かれている。この本を読んでようやく自分の感じた違和感、なぜ違和感を感じたのかに説明がつついたため、書き留めておきたい。

 なお、『不死身の特攻兵』を書く際に元にしたと書かれていた『陸軍特別攻撃隊』という本も読み、参考にさせていただいた。

 知覧平和記念館で感じた違和感に関する記事をまだ読んでいない方はそちらを先にお読みいただきたい。お読みいただいた方は重複する部分もあるかと思うが、ご了承いただきたい。

違和感①敗戦を感じていた特攻兵

 知覧平和記念会館で気になった一人目。

「日本は負けますよ、負けるのに特攻なんてしても意味がないよ」

 とトメさんに伝えていた一人の特攻兵。

 ラジオでや上官らから日々伝えられる情報は、日本が優勢であるということであったにもかかわらず、どんな状況でも冷静に現状を捉えることのできる方はいるんだなと、その時はその特攻兵を特異に感じた。しかし自分の中でよく考えてみると、そのように考えていたのはその特攻兵だけではなく、ほとんどの特攻兵だったのではないかと思い始めた。

 特攻作戦開始時は、パイロットとして幾千も戦い、戦果を上げつつ生きて帰ってきた名手と呼ばれる方々が選ばれることが多かった。それは特攻作戦を作戦として本採用するために、なんとしても成果を出そうとしたためと言われている。

 しかし、特攻が始まった時にはすでに熟練パイロットは多く戦死しており、技術のあるパイロットは少なくなってきている状態であった。技術のあるパイロットが少ない状態でも成果が出せるようにという司令部の”策”として始まったのが特攻作戦であり、その後特攻兵として選出された方は予備士官が多かった。

 つまりは、幼少期から軍人としての教育を受けていたのではなく、大学に行って勉強をしていた賢い方がほとんどであった。

 沖縄戦での特攻作戦の開始は1945年の3月である。どんなに日本は優勢であると聞いていても、失われていく兵力と少なくなっていく武器、日々の空襲、順調に日本本土に向けて兵を進めてくる米軍を見て、本気で日本は勝てると思っていた方がほとんどだったのだろうかという疑問の方が大きくなった。ましてや特攻隊員は一般的な教育を受けた優秀な方々であったはずだった。きっと冷静な目も持っていただろう。

 国民はおそらくラジオ・新聞を100%と思い、信じるだろう。それは例えるならば、今も各国で紛争が行われていると報道されているが、事実は実際に見てみないとわからないが、それを確かな情報として受け取るのと同じことだろう。

 だが、特攻兵は出撃は1回のみであるものの最前線にいたはずで、肌で感じるものや現状を見て負けを感じる方は多かったのではないかと考える。ただ、負けるとは言えなかった。憲兵がいるからというのもあるのだろうがそれだけではなく、負けるとは思いたくもなかった。そして負けを感じても、自分が行ってもきっと何にもならないとも感じても、勝つしかないと思い、重圧も抱えていただろう。きっと、映画や遺書として残る一般的な特攻兵のイメージよりも、もっと複雑で葛藤にまみれていたと考える方が自然なように思う。

 当時の国民から見ても、きっと特攻兵のイメージは、今の私たちの抱く一般的なものと同じであったのだろうと考える。「国のために、天皇陛下のために笑顔で逝きます」若いのに人間離れした強さを持つそのイメージであったし、特攻兵も一般人の前ではそのイメージ通り生きていたのだろう。

 ただ、自分の中に抱える感情はもっと複雑なものと戦い続けていたことだろう。その感情とは戦争に対しては、「勝ちたい」「勝つしかない」でも「負けるのではないか」という葛藤。特攻に対しては「自分が行って戦艦を沈めたい」「戦果を上げるんだ」でも常識的に考えて爆弾を落下させた方が戦果は上がりやすいんじゃないか、なぜ特攻なんだ、捨て駒なのではないか「死にたくない」という葛藤。

 人は感情で物事を捉えているのではないかと思うくらい、情報の捉え方は感情に左右される物だと思う。つまり、同じ情報でも楽観的な感情が優勢であれば楽観的に捉えることができ、悲観的な感情が優勢であれば悲観的に捉えることができるだろう。特攻兵の状況を考えると、葛藤の中でも悲観的な感情が大きかったのではないかと推測する。悲観的な感情により、より冷静な視点を持ち、情報を悲観的にも捉えることができ、”現実”を見ていた特攻兵は多かったのではないかと考えた。

 きっとトメさんが挙げた特攻兵の方一人が特異であったわけではないんだろうと想像した。

違和感②特攻兵の本当に言いたかったこと

 知覧平和記念会館でいくつもの遺書を読んで、特攻兵の方が本当に言いたかった、考えていたことはなんだろか。きっと遺書として書いていたことも本当のことだろう、ただ他にも伝えたかったことがあったのではないかそんな風に感じた。つまりその違和感とは、本意が掴めない、皆の遺書が同じに見えることへの違和感であった。平和記念館の方は皆最後は同じことを考えると傾向をまとめて説明してくれたが、遺書を見て感動しながらも違和感は消えなかった。

人間関大尉

 ご紹介した本には海軍初の特攻隊、つまり日本初の特攻隊である神風特攻隊敷島隊の隊長を任命された関大尉のことが書かれていた。出撃前に朝日新聞記者と関大尉の2人きりでインタビューしたそうでその際にこのように言っていたとのこと。

「日本もおしまいだよ、僕みたいな優秀なパイロットを殺すなんて、僕なら体当たりせずとも敵母艦に命中させる自信がある。僕は天皇陛下とか日本帝国とかのために行くんではない、最愛の妻のために行くんだ。命令とあればやむ負えない。日本が負けたら妻がアメ公に強姦されるかもしれない。僕は彼女を護るために行くんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ素晴らしいだろう。」

 ただ、この”人間関大尉”という記事が公開されることはなかったとのこと。その理由は軍からの圧力で、

「関は女に未練を残すような男ではない。神様である。神様を人間扱いして誹謗するとは非国民である。銃殺してやる。」

 と軍に脅されたそう。そして、この記事の代わりに”国のために笑顔で死ぬ”という特攻隊のイメージが第一回目の特攻から作られたとのこと。(不死身の特攻兵より)

 腕のいい操縦士ほど特攻作戦には批判的であったようであった。特攻作戦では、兵士は必ず命を落とし、飛行機も使えなくなるため、1度しか出撃できない。その上飛行機ごと落下するために落下速度は爆弾のみと比較したときに圧倒的に遅くなる。どう考えても戦果が上がるわけがない考えていたから。ただその考えは作戦検討時に特攻反対派の将校が伝えても採用されず、特攻作戦が採用された。

 おそらく多くの特攻兵も特攻が有効であるとは考えてなかったのではないか。軍の上官には言うことが出来ないだろう。さらに当時は軍の遺書は検閲を通るので本音は書けない。だが、特攻兵の遺書はトメさんが預かり、一般人の手紙として出していたとのこと。つまり、書こうと思えば本音を書けたと想定している。そう考えた時に、なぜ遺書においても抱える思いを伝える人がいなかったのか。遺書においても本音と感じられるものがなかった理由について考えてみたい。

情報操作

 国民の状況を考えてみたい。多くの国民が日露戦争を経験している。その時から男は戦争に行くものだ、戦果を上げて死ぬのであれば栄誉あることであるという潜在的な認識を持っていただろう。そして、国民が戦争の状況を知ることができるのはラジオや新聞のみであっただろう。

 当時、ラジオや新聞で伝えられていた特攻の戦果は目を見張るほどであった。1度の出撃で複数の戦艦が沈没・大破・損傷と伝えられていた。もしかしたら今も特攻隊の戦果は凄かったと認識している人もいるかもしれない。

 しかし、米国側の資料や計算を行っていくと、特攻隊の攻撃により沈没した船の排水量は空母1艦に満たないとのこと。(通常、戦闘力を測るときは戦艦に対しては排水量で比較する。)

 実際の戦果とは裏腹裏腹に、さまざまな要因によって戦果は水増しされていった。

 一つ目の要因として、当時の戦果の確認は録画等ではなく、目視で行われていたことが挙げられる。特攻隊は護衛部隊と一緒に出撃する。護衛部隊は米国の戦機が来た時に攻撃し、特攻が突撃する前に撃ち落とされないように護衛する。また、特攻隊が突撃した後、特攻の戦果を確認するための特攻隊の戦果確認の役割も担っている。特攻隊が突撃するために急降下する時には、護衛部隊は米国戦機から戦い、逃げることに必死である。つまり操縦し周囲を確認しながら、戦いながら、逃げながら、戦果を目視で確認するわけである。確認の時点で戦果確認の精度は低く、戦果の重複はたびたび起こったと想定できる。

 二つ目の要因として、報告時上官からの圧力がある。「これだけの犠牲があったのに戦果はそれだけか」と。報告時点でも戦果が水増しされた。

 三つ目の要因として、国民に放送される時にも認識違いが起こる。戦艦に関しては、”空母”と聞くと、排水量の多い”正規空母”を想像するが、”護衛空母”と呼ばれる、商船を改造し空母化した空母もある。護衛空母は所詮は商船であり、正規空母のような防御力もなければ機関出力も少なく貧弱であった。だが、護衛空母へのダメージも、空母と伝えられた。また、損傷についてであるが、戦艦にはダメージなく、ペンキが剥がれた程度の”微傷”も損傷と伝えられた。戦果としてはこの「損傷=微傷」がかなり多かったようであった。

 様々な要因から水増しされる戦果を国民が信じ、特攻の威力を信じた。

戦争下の新聞社と国民

 特攻隊のことを新聞で一面に載せた。普段の笑顔の写真や、人間性、あること、ないこと、読み手の心を打つこと。国民はこれを大いに喜び、感動し、熱狂した。特攻隊を一面に飾った新聞はよく売れたようであった。

 マスコミと呼ばれる業界はいつの時代も国民に喜ばれ、売れることが正義である。太平洋戦争が始まった時に戦争批判をした新聞社が1社あったそうだが、1部も売れなくなっていき、方針を変えるしかなくなったほどである。当時はプロパカンダのような情報が最も国民を喜ばせた。つまり、国民も戦争を求め、戦果に良いしれ、特攻隊に感動したかったのである。

 新聞社としては、軍の検閲があるから軍にとって都合の良い情報を載せると言うのもあっただろうが、”売れるから”戦争を肯定し、国民の求めることを書いていたのであった。

  これらのプロバガンダの影響でさらに国民も戦争を求め、戦争に酔いしれ、戦争を激化させた。熱狂した国民は入ってくる情報を疑わず、100%信じたのだろう。

本音を伝えない理由

 「特攻隊はすごい戦果を上げる。日本は勝てる。」国民はそんな風に思っていただろう。これは遺書を書く宛である相手も同じだっただろう。そう思っている人に対して特攻兵が本当の心の中を伝えることはできるだろうか。

 そして、そんな相手に対して、つまり遺書を書きたいような感謝している相手に対して、わざわざ不安にさせるような心の内を伝えるよりは綺麗な部分だけ伝えたい、少しでも安心させたい。そんな気持ちもあったのではないかと思う。

 つまり、本当の気持ちは内に秘め、伝えなくなる。だから全員同じ遺書になるという構図であると考えた。

 もちろん、遺書に記載されている内容が嘘ではないだろう。それも思っていたことだろう。ただ、綺麗なことだけを書いただけだと思う。遺書は本来綺麗なものであるのが一般的だとは思うが、当時の状況での彼らの心境を考えると、もっと伝えたいこともあったのではないかと考える。

特異な遺書

 遺書の一つに、

「せめて特攻に行くのであれば最新の戦機で行かせてくれ。せめて部下だけでも最新の戦機で行かせてあげくれ。こんなボロ戦機では可哀想だ。懇願したが無駄であった。」

 という内容以外何も書かれていなかった遺書があったのを思い出した。

 出撃の遅い方であったから、古い戦闘機もしくは練習機で突撃したのだと思う。特攻も終盤は布プロペラの練習機で出撃していたとのことであった。

 このようなことを書いていた人は少なかった。このような心の内を伝えたかった方も決して少なくはなかったのではないかと考える。特攻隊の方々が本当に伝えたかったことはもはやわからない、想像しかできないが、そう考える。

違和感③指導教官の出撃許可が出なかった理由

 知覧平和記念会館で気になった2人目の方。陸軍の中でも歩兵出身で操縦士ではなかったが、特攻の心構えや陸での体づくりを指導していた教官。

 当時教え子に、

お前たちだけには行かせない、私も必ず行く

 と言っていたそう。

 ついに出撃を志願していたが、なかなか上官らに許可をもらえなかった。妻子が主人の信念のために川に身を投げ心中し、この教官自身も親指を落として志願を伝えてようやく通ったとのことであった。

 そのことを聞いた時に、信念の硬さに畏敬の念を抱くとともに、上官が出撃許可を出さなかった理由は指導担当教官が出撃したら、他の上官たちも特攻に行かないのかという不信感が特攻隊員の中で芽生えてしまうことを恐れたのではないかということであった。

若く未熟なパイロット:特攻兵

 上官、司令官の中には特攻隊員に対して自分も最後は特攻として出撃すると言っていた人がほとんどであったらしい。ただ、実際に出撃した上官は決して多くはなかったという。特攻出撃する前に思いがけず終戦を迎えてしまったと言う方もいるだろうが。

 本には海軍特攻兵死者の内訳が記載されていた。全海軍特攻戦死者2,525名、うち予科練出身者1,727名、海軍飛行予備学生出身の予備士官・特務士官は688名(うち特務士官は20名程度でほとんど予備士官)、エリートである海軍兵学校出身者は110名。特攻に出撃するのは多くは20歳前後の下士官か、学生出身の予備士官であったとのこと。全体の特攻戦死者の中で予備士官の戦死は25%、海軍兵学校出身者は全体の4%とのこと。陸軍は全くデータが残っていないとのことであったが、おそらく同様の数値であり、戦後焼却したとみられている。ただ、全体の数値が残っていないのでイメージが掴みにくいところではある。

 操縦士の評価として、飛行時間2,000時間で指揮官・僚機として戦闘で力を発揮したと分類され、600〜1,500時間だと僚機として作戦任務につけると分類され、300時間未満では作戦任務に就けない。このように『空戦 飛燕対グラマン』には記されているとのこと。

 しかし、特攻隊として任命されていた特攻隊員は若くて未熟な操縦士が多く、飛行時間300から500時間程度、中には100時間未満の離着陸がやっとという方も選ばれていたよう。この点から考えると、操縦士ではないため出撃許可が出なかったというのはさらに納得がいかない気がしてしまう。もちろん、米軍が上陸した時のために歩兵として戦える人を残しておきたいと言うのもあったかも知れないとも考えられるが。

 こんな話もある。海軍の特攻兵の中に、特攻で突撃する直前に「海軍のバカヤロー!!」と無線で叫んで突撃した方も数名いたとのこと。少なくとも上官や組織に対して、若い自分たちだけ捨て駒にしてと言うような不満を持っていた特攻隊員も少なくはなかったのではないかと感じる。

 特攻隊死者内訳や飛行時間の観点から見るとやはり、操縦士ではない指導担当教官に出撃許可が出なかった理由の一つとして、指導担当教官が出撃したら、他の上官たちは特攻に行かないのかという不信感が特攻隊員の中で芽生えてしまうこと、多くの上官や指導官たちが出撃する流れになることを恐れた可能性もあるのではないかと感じた。

違和感④大西中将は本当に特攻の生みの親であったのか

 今回の知覧訪問で最も印象的であった方。特攻の生みの親と呼ばれており、ポツダム宣言とともに切腹し、介錯を拒み続け、15時間苦しんだ後に亡くなった方である。調べていると人間性的な部分であったり、特攻を作った方ということが多く書かれている。ただ、遺書も読んだ上で私の中で感じたこととしては本当にこの方が特攻を作ったのだろうかということ。そして、もし作ったのだとしたらそれしか手段はなかったのではないのだろうかと考えてしまう感覚であった。心から国を思い、心を痛めたための選択した死に方であったのではないかと。

大西中将の役割

 さて、本当にこの方が特攻を産んだのかという疑念と違和感。感情的な部分は置いておいて、事実としてまず、この方は中将であった。その上には大将がいるだろう。そして統括・首相がいるだろう。そして天皇がいる。そう考えたときに独断で始まるとは思えない。

 本にはこのように書いてあった。海軍が特攻作戦を開始したイメージが強いが、実は同時期に陸軍でも特攻作戦を指示していた。さらに、陸軍においては死のツノと呼ばれる飛行機からツノのようなものが出た飛行機が開発されていた。この時点でこの方の一意見で実現しているとは考えにくい。

 本を読み、調べた上での理解の結論として、大西中将は特攻の編成を行い、命令を下した一中将であったということである。そして、その命令はさらに司令官から下っている。生みの親というイメージからはかけ離れているのではなかろうか。

大西中将の言葉

 大西中将は最初の特攻隊『神風特攻隊』が特攻を成功させた時、

「これでなんとかなる」

 と言い、

「日本海軍が最後の手まで使ったということを戦史に残したい。日本の作戦指導がいかに拙いか、これは統率の外道だよ。」

 と言ったといわれている。

 また、特攻を採用し命令した理由として後述する内容を言っていたと言われている。これは、大西中将が参謀長小田原大佐だけに語った胸の内で、小田原大佐が元特攻隊員角田和男にのみ伝えた言葉であり、角田さんを通じて今に残っている言葉である。言葉は省略しているが、残っている言葉はもっと長く、遺書と類似した内容であった。

「万世一系仁慈をもって国を統治され給う天皇陛下は、このことを聞かれたならば、必ず戦争をやめろと仰せられるだろう。」
「その結果が、いかなる形の講和になろうとも、日本民族が将に亡びんとする時に当たって、身をもってこれを防いだ若者たちがいたという事実と、これをお聞きになって陛下御自らの御仁心によって戦を止めさせられたという歴史の残る限り、五百年後、千年後の世に必ずや日本民族は再興するであろう」

 つまり、

天皇陛下は特攻を知ったら戦争をやめろというだろう。その結果がどうであれ、国が滅びようとした時に命をかけて国を守ろうとした若者たちがいたという事実と、特攻を聞いて天皇陛下自ら終戦したという事実が残る限り五百年後、千年後の世に必ずや日本は再興するであろう。

 ということ。

 ただ、残念ながら天皇陛下は特攻を知っても降伏をしなかった。

特攻命令側が生き残るには

 この大西中将は停戦を一番拒んだ人としても知られていることであろう。ただ、残っている言葉、遺書を考えると、降伏を拒んでいるとは考えにくく、それよりも軍の中で一番終戦、平和について考えた方なのではないかと感じてならない。

 本に書かれていたこととして、特攻作戦を推進し命令していた側であるが、生き残っている人は多いという事実。

 実は今の特攻のイメージは全てこの命令側にいた方の証言、視点で作り上げられていると言われている。特攻は「命令」ではなく「志願」となれば、命令側が責任を逃れられる。そして、死人に口なしとはこのことだが、亡くなった大西中将を一人悪者として仕立て上げたのではないかと。そのようにして、戦中に特攻を推進・命令側にいても、戦後もポジションをキープした。戦後の日本の軍の形式を作った方もいるそう。その事実から大西中将のことを考えると、先ほどあげた矛盾に説明がつきそうだ。

違和感の先に感じたこと

 違和感として感じたことをもとに本の内容を紹介し、私の意見も記載させていただいた。この文章の中には世間、個人などへの批判的と感じてしまう書き方もしてしまったかもしれない。

 ただこの際、誰がどういう作戦を考えたか、そんなものははっきりいうと問題ではないと考える。それは、組織は人が形成し、人により形成されるものではあるが、人も組織により形成されると考えるためである。つまり、その人がいなくても、別の名前の人が同じことをすると想定できる。そのため、特定の名前に追及するよりは、組織が生み出した人間であることを認め、どのような組織構造なのかという観点に着目した方が今後の役に立てると考える。

 さらには特攻隊はやってはいけないことであるということも一旦は置いておきたい。

 色々調べ、考えた中で感じた結論としては

「戦争とはそういうものである」

 ということであった。

 戦争においては1つの命は駒として扱われる。上に立つものは戦略と言えない戦略でさえも命令として出し、下にいるものは命令に従うしかない。抵抗をしても、すでに決まっているのである。

 報道はプロパガンダとして戦争を助長する。国民はプロバガンダ的な情報で熱狂する。その熱狂がさらに戦争を助長する。

 国が始めることで戦争は起こるが、さまざまな形で国民までもが戦争を助長し、全員が戦争に参加する。国が始めた戦争だが、さまざまな要因から止めることができなくなる。それが戦争なのである。

 やはり、今後絶対に戦争は起こしてほしくないし、起こしてはいけないということを感じた。戦争は昔の話、今は起こり得ない、天皇統治ではないし、民主主義であるし、戦争なんて起こるはずがない。そう思う人も多いかもしれない。確かにそう感じられるくらい平和で制度もあるように感じるが、その一方で戦争はいつでも起こり得るのではないか(今も戦争期から続く派閥や体制は残っている)と感じた。

全てを受け入れる潜在的国民性

 ご存知の通り、天皇統治は明治政府が復活させた。1889年である。そこから一気に天皇陛下は神様的な存在となった。その認識に変わるまでに時間はかかっていないのである。

 天皇復活は、国民の意識を村という単位から社会に向けさせ、世間という意識を根付かせるために始まったそう。

 元々日本という国は地震や洪水などの災害も多かったため、何かに対して反発するという意識より、とにかく受け入れるという意識が大きい国民らしい。自然災害に反発しても仕方なく、受け入れて進むしかないので、受け入れるという能力が高いとのこと。

 それが故、制度が変われば国民の意識も変わると考えると、いつまたその状況になってもおかしくないと考える。

現在の戦争教育

 そう考えた時に、本当に今の戦争教育や組織体系で良いのだろうか、いや、いいわけがないと感じたのであった。

 学生時代に戦争について話してくださった方は締めの言葉で必ず「戦争は絶対にしてはいけません」と言ってた。

 そして特攻について自ら学びに行った時は、「日本人はすごい、特攻はこんなに成果を出した(誤報告の数値を用いて)。やればできるんだ。」と言ったテーマで話している方もいた。

 また、さまざまな映画では、”国のために、天皇のために笑顔で死を迎える特攻隊”が多く描かれていた。

 平和記念会館においても、「戦争を起こしてはいけない。そして自分の家族や友達の関係についてもう一度振り返る機会にしてほしい」という内容であった。

 どのタイミングにおいても戦争とはどのようなものなのか、戦争によって失われたものについては学んだが、なぜ戦争が起こるのか、どのようにして戦争になっていくのかなどの体系的な知識については学べていない、不十分であると感じる。

戦争教育の第一歩

 特攻兵の境遇や戦争時代の方を考えると私たちの今生きている状況は、きっとかつての彼らが夢見ていた生活であろう。戦いがなく、お腹がいっぱいになるまでご飯を食べることができる。生理的欲求と安全欲求が満たされている社会がある。
 さらには1日好きに過ごすことができ、自分の人生を自分で選択できる。そんな好きになんてできないよ、仕事しなきゃいけないしと思う方もいるかもしれないが、仕事をするということを自分が選択しているだけなのである。今の時代の日本は幸せすぎて、平和すぎるが故に当たり前の基準が上がりすぎて、幸福を感じるときがわからなくなっている人もいるようにも感じる。

 ただ、”今の全て”が実は幸せなのである。負の感情になろうと、その程度のことで負の感情になれるのが実は余裕があると言うことなのである。
 当時に思いを馳せると、今の生活自体がなんと幸せなことだろうと気づくことができる。

 そして、今の平和をもたらすために戦ってくださった、命を繋いでくださった方々に心からの感謝と畏敬の念を抱く。この状況を作ってくださった方々がいたからこの”今”がある。今は与えられた平和の中を生きることができているんだと気づき、その全てに感謝することができる。

 戦争を考える第一歩として、戦争時代を感じ、自分の状況を客観視して捉え方を見つめ直すということは大事だと考える。そう言った意味で今の戦争教育は決して間違っていないのかもしれない。ただ、多くの戦争教育がこの第一段階で完結しているとみている。
 本来は、戦争について考えるという次のステップが必要だろうと考える。それは、実際に戦争を起こさないように戦争自体について考えるということである。

戦争を知る

 自分の状況を顧みた後、やはりこの平和を維持していきたいと感じるかもしれない。そしたらようやく、そのための方法を知る気持ちが湧くかもしれない。

 私は”戦争を知る”とは、下記それぞれに関して専門家として研究した内容を学習し、これからの対応を国としての見解を知ることであると考えた。

①どうしたら戦争が起こるのか(戦争を引き起こす国・代表・組織構造とは)
②戦争を起こさないためには何をしたらいいのか(どういう代表を選んだら良いのか)
③戦争が起こりそうな兆候はどのようなものか(自国が戦争に向かうとき・他国から攻められた時)
④戦争が起こりそうになった時にどのような行動を取れば止められる可能性があるのか(大切なのは外交官なのか首相なのか他なのか)
⑤仮に現在の国の知識を抱えた状況で、当時の戦争直前に戻った時にどのようにしてたら止められたのか
⑥他国から攻められたときはどのような手段を取るのか。(国連・米国を頼るのか・自国の自衛隊はどうするか)
⑦国が侵略され、武力行使しかないとなった時に国民が惨殺されても、国は戦争をしないのか。防衛戦争をするのか。
⑧そもそも外国から侵略されない国とはどんな国なのか。

 おそらく専門家としても国としても考え、そして結論を出すことは難易度の高いことであると考える。そして、時代・組織によっても変わるだろうとも思う。
 ただ、戦争をしない国としているのに、歴史の教科書の戦争についての学習時間・知識は足りているのだろうかとも感じる。
 これらのことについて体系的、論理的、現実的な知識をつけていくことが戦争を知るには大切なのではないだろうか。

戦争を伝えていく

 戦争を知るの観点に付随するが、戦争を伝えていくことに関しても今回疑問を持った。足りていないという部分もそうだが、今なお美化しつつ伝えてしまうのは何故なのだろうか。私たちでさえも、特攻の方々を”軍神””国のために笑顔で命を捧げた方々”そんなイメージのままで良いのだろうか。

 今までそのようなイメージが強かった理由として、当時司令部を務め、戦後も日本の軍の形を作ったような方々の例をあげたが、現在もその方々の作った”物語”のイメージが語り継がれている。そして、なぜ”命令した側”の物語が多く、”命令された側”の物語が世に出ていないのかというところになってくる。

 実は、特攻兵として出撃したが、様々な理由から突撃できず生き残った方々もいた。そして、出撃する前に終戦を迎えた方もいた。そのような終戦時も生きていた方々の中には、終戦を迎えてから自害した方もいたようであった。自害とまではいかなくとも、自分が生き延びたことを恥じたり、罪悪感を抱えたりする方は多かったのではないかと感じる。
 そして極め付けとして、『知覧平和記念館で感じたこと』にも記載したが、”世の中の評価が相対的”であるという点も関係するようと考える。終戦後、国民は兵士たちに対して、「お前たちのせいで負けた」「お前たちがしっかりしていれば」「何で生きて戻ってきたんだ」というような声をかけることも多かったようであった。そして、それはかつて”神様”とまで呼称していた特攻兵であれ同じことであった。そんなことから生きて戻れた特攻兵も胸を張れる状況ではなかったことであろう。

 そのような状況だったためと戦争時の苦しみから、当時の経験を話したい、伝えたいというよりは誰にも話したくないし、できれば思いださず、忘れて生きていきたいという思いで生きていた方が多いのではないかとも思う。
 兵士ではなかったが、戦争当時を生きていた方で、花火は当時の空襲を思い出すから見られない、嫌いだという方もいた。

 そんな理由から、今までは意思(戦争をしないためにという意思や、本当のことを暴きたいという意思、自分が今の地位を維持して生き残るためにという意思など)を持った方のみが体験談を伝えていたと想定し、中でも地位のある方による都合のいい物語が広く伝わっているように感じる。

 しかし、今後も今のままの伝え方で良いのだろうか、また、その戦争さえも語られなくなって良いのだろうか。もっと今後の目指す未来にとって良い伝え方はないのか。

 おそらく今まではある程度戦争を美化しなければいけない部分があっただろうと思う。戦争自体は完全否定していても、国・軍・兵・報道・国民様々な側面を否定することは難しかっただろう。良くも悪くも戦争を生き抜いた方々がいた時代には向き合えなかったことがあるだろう。

 そう考えた時に、これからの時代には一つの強みがある。それは誰も戦争を直接経験していないことである。経験していない事は弱みでもあり強みでもある。私たちは戦争に対して冷静に客観的に捉えることができ、伝えていくことができるのではないか。冷静に客観に見た戦争の伝え方についても模索していくのはどうだろうか。

戦争と政治

 多くの人が戦争は起こしてはいけないというのを知っているだろう。ただ、どこかきっと他人事であろうと考える。その理由ははっきりしている。戦争を自分が起こせるわけがないからである。国民一人が仮に戦闘機を手に入れて、外国に乗り込んで行ったとしても、戦争にはならない。国が国として戦争を起こさない限りは戦争にならないのである。国の代表になる確率も成りたい人もそう多くはないだろう。だから、戦争を起こしてはいけないと言われても、他人事になるのは当たり前だと考える。

 しかし戦争について語っていた多くの人は「戦争は起こったら最後。止めることはできません。戦うしかありません。」と言っていた。つまり、戦争を起こさないための国民の取れる行動をもっと知る必要がある。

 そう考えた時に私自身も政治についてももっと知っていく必要があるとも感じた。

 例えば、自分で戦争を起こすことはできない反面で、かなり極端な例を出すと、一般国民全員が戦争はしないと決めていたとしても、首脳陣が戦争を始めたら戦わなければならない可能性が高いと感じる。

 今は民主主義であるからきっと戦争を起こしていいのか採決を取るだろうとも思うが、実は戦争に関係しそうな憲法もどんどん変わりつつある。ただ、変わることが単純に悪いことであるとは考えていない。時代と共に状況は変わる。物事、他者との関係を維持したいと考えたら、関係を続けるために変わらなければいけないことも多い。

 ここで一番問題なのは、変わっていることを国民が知らないことであると考える。何がいつ変わり、どのような状況で何に対応するために変わったのか、そう変わることによるメリットとデメリットは何か。リスクは何か。それを知っている必要がある。知っていなければ判断できない。そして、その変化が悪い方向に向かっていると感じる時にどのような行動が取れるのか。

 私は時々、国の代表の選び方は知っているが、辞めさせ方は知らないと感じる時もある。選ぶ段階でしっかりと責任を持って選ばなければいけないとも感じた。

現代に託された課題

  終戦から70年がすぎ、80年が経ちそうな現在。戦争時代を生き抜いた方で生存している人もほとんどいなくなってしまっていて、全く戦争時代を経験していない人のみの時代を迎え始めている。戦争の体験談を語り継ぐことはできても、生身の体験談を聞くことは誰もできなくなる。そして決して忘れてはいけないのは、それは日本だけではないということだ。全ての国で世界大戦を経験した人はいなくなっていく。先進国では戦争を経験した人も少なくなっていくだろう。

 それは再び危険性が増すと考えられる一方で、客観的に捉えられるとも考えられる。

 ”戦争を知る”であげたような現時点で解決が見えない課題、誰も取り組もうとしなかった課題、取り組もうとしたが取り組めなかった課題。これらが今を生きる私たちに託された課題ではないかという気がしている。

 先進国内では戦争は終わったと信じられている。だが、歴史を考えていくと、今の時代はただの停戦期でしたと言われてもおかしくないとも感じる。そのくらい人と戦いの歴史は長いと学んできた。他国に目を向けるとそれは明白である。未来に行ったときに、この時代を約100年の停戦期であったと称されないよう、この武力行使のない”平和”な国を未来にも永続的に続けるために現在に託された課題について取り組んでみる必要があるのではないか。私たちにできることは一体何だろうか。答えのない問いではあるが、できることから取り組んでみたい。そんな気持ちになった。

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